Director’s Statement

公式プレスノート(Janus Films)に収められた監督ステートメントより

企画のはじまり

「マゼランの映画を撮ることは、私のずっと抱いてきた夢だった。私はフィリピン人であり、マゼランが私たちの岸に着いたとき、それは西洋との最初の『遭遇』だった……そしてそこから、私たちの新しい時代が始まった。ジョアキン・サピーニョ(Joaquim Sapinho)と出会ったとき、彼は映画を作らないかという提案を携えてやってきた。彼は私に本を送ってくれた。だがマゼランがポルトガル人である以上、私たちが何をやるかは運命がすでに決めていた──私の長年の夢を。やがて彼は、私がすでに面識のあったアルベール・セラ(Albert Serra)をこの企画に引き入れ、すべてが整った。物語を語るためのポルトガルとスペインがそろったのだ。のちに友人のポール・ソリアーノ(Paul Soriano)も加わり、フィリピンも手に入った。私はこの旅に出る準備ができていた……ほどなくして、ガエルが参加してくれた。」

マゼランの切り返しショット

「ひと回りして、元に戻ってきた──マゼランのサーガを、私たちフィリピンの視点で手がけたいという思いが。私のテーマはフィリピンの歴史だ。私たちの側でこの物語の主要人物となるのは、王であるフマボン(Humabon)と、マゼランを殺した首長ラプ=ラプ(Lapu-lapu)である。ラプ=ラプは私たちの歴史における偉大な英雄だ。だが私は、ラプ=ラプはフマボンの創作物にすぎなかったと考えている。多くの本を読み、点と点をつないでいけば、優れた探究者ならこの人物が極めて疑わしいことに気づくはずだ。事実の辻褄が合わないのだ。その意味で、この映画はある種の修正主義的なものになると思う。

確立された紋切り型と闘うことは、面白いと信じている。フィリピンの最大の問題は神話づくり(myth-making)だ。それは、私たちがこの“ラプ=ラプ”というものを作り出したときに始まった、と言ってもいい。誰も彼を見た者はいない。おそらく実在すらしなかった。最初から神話だったのだ。そして今、私たちは神話づくりのせいでデマゴーグ(扇動者)を抱えている。独裁者マルコス(父)がいた。ごく最近ではドゥテルテがいた。彼らは神話づくりによって指導者になった。つまりそれは、社会を編成するための一つのモデルなのだ。この神話づくりとともに現実の世界を生きるのはとても難しい。私たちは、常に欺かれ続けているのだから。」

モデルとしてのマゼラン

「マゼランは常に、すべての探検家にとって──宇宙飛行士のように、より遠くへ行こうとするすべての者にとっての範型(パラダイム)であり続けてきた。マゼランは彼らの念頭に常にある。マゼランのサーガが、マゼランの旅が。

だがマゼランは同時に、異なる可能性を見いだそうとするすべての者にとってのモデルであり、範型でもある。映画というメディアをまだどこかへ押し進められると私たちが信じるように、マゼランもまた世界を見つめ、『どこでもないところに何かを見つけるのだ』と宣言する。それは、地上に楽園を持つもう一つの方法を、それを発見することを夢見る、ロマンティックな夢だ。マゼランは、自分が王にはなれないと知っていた。だが、自らの夢を、野心を成就できる場所をどこかに見いだすことはできた。マゼランは、ヴァスコ・ダ・ガマやほかのすべての探検家と同じく、時代をはるかに先取りしていた。彼らは、どこか向こうにもっと何かがあると知っていたからだ。私にとって映画もそうだ。私たちはまだそれをどこかへ押し進められる。映画を押し進め続ければ、何か新しいもの、より切実なものを見つけられると思う。それはひとつのヴィジョンのようなものだ。あるいは、恐怖についての何か──新たなフロンティアを見いだすために、私たちは恐怖の壁をことごとく打ち壊さねばならない。私たちはまだ、どこかで黄金の島々を見つけるだろう。」

妻ベアトリス

「もう一人、マゼランの妻ベアトリスがいた。彼女についてはほんの脚注、三行か四行──読めるのはせいぜいその程度だ。だからこそ、彼女をめぐって何かを本当に作り上げ、彼女をマゼランと深く結びつけたいという衝動が湧いてくる。ベアトリスは、マゼランが世界を探検することをどう考えていたかにとって、非常に重要だ。なぜなら彼女は彼の内に、彼の心に、彼の魂のなかにいるからだ。ベアトリスはマゼランの魂だと思う。ベアトリス、そしてもちろん、子どもたち。彼は遠征のあとに家族を持つという夢を抱いていたと思う。だからそれは、いつか自分の家族を黄金の島々へ連れて行くという、約束のような、夢のようなものだった。それは彼の心のなかにあったと思う。終盤に向けてどれほど尊大になろうとも、マゼランのもっとも単純で、もっとも純粋な夢は、いつか家族がふたたび一つになること、ふたたび完全な存在になることだったと思う。

これは、場所を移す人間にまつわる謎だ──一方では別の社会、別の世界に身を置きたいと願いながら、他方では自分の世界をその社会へ持ち込みたいとも願う。家族という単位としての“家(ホーム)”という観念。だからマゼランは、征服者として、探検家としての大きな野心とヴィジョンにもかかわらず、それを心に抱いていたと思う。彼のもっとも純粋な夢は、いつか家に帰ること、別の場所である種の帰郷を果たすことだったと思う。この映画には9時間版があり、そこでは、このベアトリスの物語のすべてが明かされる。」

改宗

「他方で、遭遇という、接触という、そしてその持続的な影響という主題がある。今日でもフィリピンの80%はカトリックであり、実際、フィリピン最大の宗教的イコンは、マゼランとともにやってきたサント・ニーニョ(Santo Niño/幼子イエス像)だ。私たちは国じゅうの実に多くの場所でサント・ニーニョを祝う。その影響は今日もなお感じられる。改宗のすべては、このサント・ニーニョから始まった。

私の映画でフマボンの息子が癒される場面は、実際の出来事の再現だ。それは本当に起きた。ピガフェッタ(Pigafetta)の日記に記されている。改宗が本当に始まったのは、セブの女王──フマボンの妻が、それは本物だ、サント・ニーニョは本当に人を癒せるのだと説き始めたときだった。セブ島全体の改宗がわずか四日でなされた本当の理由はそれだ。なぜそんなに速かったのか。フィリピンの人々は当時すでに非常に信心深く、霊的だった。もちろん私たちには『アニト(anito)』があった。私たちは、世界に存在するすべてのものには霊が宿ると信じている。木の神、川の神、海の神……。だからこそ、マゼランが『アニト』の破壊を命じたとき、フマボンは考えを変えた。彼はマゼランを亡き者にする企てを始めたのだ。

だが私たちが今感じているのは、これこそがフィリピン本来の宗教だったということだ。キリスト教はこの霊性にある種の統一を与えた。だからこそ私たちはこれほどまでにカトリシズムを受け入れている。それはまた、私たちが霊や神々とどう向き合うかにも関わっている。私たちは、超自然的なものによる癒やしがあると信じている。苦しみと犠牲は、それと深く結びついている。だからマゼランがフィリピン人を改宗させ始めたとき、それはとても速やかだった。」

ワンテイク・ワンフレーム、そして非俳優と俳優の映画

「私は歴史を撮りたい。だから、人を撮ることが私にとって非常に重要だ。だからこそ、プロの俳優と非俳優を混ぜるのが好きなのだ。私はフィリピンでもっとも重要な俳優たちと仕事をしてきた。プロの俳優は、その場で起きていることに本当にうまく対応できる。彼らには道具があり、技術があり、空間の使い方も、周囲のあらゆるものの使い方も心得ている。だが非俳優は、とても、とてもぎこちなくなりうる──そしてそれが何かを生み出す。私にとって、非俳優がプロの俳優に対して見せる緊張、その極めて原初的な反応は、とても興味深い。私はあの緊張が好きだ。それは映画が成立するために必要だと思う。それは、やってしまったことを取り消せない演劇のようなものだ。私はワンテイクしか撮らないので、緊張をさらに高める。きっと来る──この緊張から、何かが立ち上がってくる。

私は、現実が起きるのを見たい。私の操作なしに、何かが起きるのを見たい。たくさんのショットを撮ることで簡単に修正できる従来の映画づくりのやり方──私はそれを覆したい。すなわち、ちょうど良くなるまで何度でも繰り返すという、いわゆる『容易さ』を。なされてきたことを覆し、一つの統一されたものを見たいのだ。ただ観察者であること、ある意味で、ただ証人であること。すべては操作なしに起きる。むろん、それでも操作ではある。あなたは依然としてすべてを再現し、何かを劇化している。だがワンテイク、ワンフレームでは、俳優にとってより困難になる。そして、そうやって生まれる緊張こそが良い。それは出来事(イベント)のようなものだ。ショットの一つひとつが、出来事なのだ。」

ガエル

「ガエルは別格だ。演劇、テレビ、映画──あらゆるメディアを横断して仕事をしてきた、偉大な俳優だ。驚かされたのは、彼が私の方法にも順応したことだ。あるときから、彼はただ流れに身を任せた。映画は、私が当初考えていたよりも霊的なものになったと感じる。ガエルはマゼランと──自らの死すべき定めを知る者という人物と──本当に深く通じ合っていた。映画は最終幕で、ずっと霊的なものになった。終わりに、マゼランが生のより深い理解にたどり着くからだ。彼はヨーロッパには戻れず、どこへも行けないと知っている。60人のヨーロッパ人に対し、1500人のフィリピン人。勝てないと、彼は分かっていた。それでも彼はただそれを受け入れ、自らの運命を受け入れた。

ある意味で、それはガエルも同じだった。彼自身が死にゆくわけではないのに、自分が死にゆくのだと受け入れた。ガエルは魂の領域に踏み入った。それが映画の力だ。私たちはただ物事を見せているだけ、起きていることの証人であるだけ──そのように。ガエルは、本当にマゼランになった。」

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